先祖返りの町作り ~無限の寿命と新文明~
第170話 スイソこんろ
それから、年を三つほど跨いだ頃。
ケンビキョウの普及により、効果的な薬が開発され始めたため、この都市の平均寿命も少しずつ延びてきている。
外科治療時のアルコール消毒の徹底など、衛生観念の普及も効果的だったのだろう。
そのおかげで、カズシゲも六十四歳になっていたのだが、まだまだ元気で頑張ってくれている。
また、この頃になると、浄水施設の研究もほぼ完了していた。
よって、研究を一段階進め、ある程度、長期にわたる健康調査と、浄水場建設のための研究にシフトしていた。
そのため、キョウジュの一人に浄水施設の研究を引き継ぎ、私はまた別の研究を開始することにした。
ちなみに、健康調査のための被験者に私も名乗りを上げており、毎日、消毒した水を摂取している。
今のところ、私も含めて誰にも問題は発生していない。
新しい研究を開始するにあたって参考にしたのは、各研究室の進捗の報告会の内容だった。そこで完全に行き詰っていた水素ガスの利用方法の研究を、私も行うことにしたのである。
次亜塩素酸ナトリウムの製造過程で発生する水素ガスの利用方法の研究は、かなり初期から行っていた。
目指していたのは、飛行船への応用である。
キョウジュたちは、私から空を飛べるようになるかもしれないと聞かされていたため、かなり張り切って研究してくれたそうだ。
ただ、水素ガスは、非常に発火性の強い気体である。そのため、静電気などによるごくわずかな火花で簡単に炎上してしまい、とてもではないが、人を乗せる規模のものは作れそうにないという結論に達してしまっていた。
そこで、私は、水素ガスの新たな応用について、ダイガクの自分の研究室で、一人、考えをまとめていた。
水素が含まれる化学反応式をいくつか思い浮かべていた時、高校で習ったハーバー・ボッシュ法に思い至った。
この手法はアンモニアの大量生産に非常に適している。そして、アンモニアは、化学肥料の主原料の一つだ。
化学肥料に必要な元素は、窒素、リン、カリウムになる。このうち、アンモニアは窒素を賄える。
リンとカリウムについては、現代の地球だと、それぞれの鉱石から抽出したものが使われている。
しかし、この国は、面積で言えばおそらく日本の九州地方ぐらいの広さしかないため、そんなに都合よくそれらの鉱山があるとも思えない。よって、別の手段で補う必要がある。
これらの元素のうち、カリウムについては、現在は廃棄処分になっている動物の骨を砕いた骨粉で賄うことができるはずだ。
まあ、これを利用した時点で化学肥料ではなく、有機肥料になるのだが、これは仕方がないだろう。
リンについては、牛糞や鶏糞を使った堆肥を作ればいいはずだ。
これら、三つの元素を適切に追肥して補うことにより、連作障害をなくすことができる。
つまり、食料の大増産が可能になるため、これらの研究を誰かに任せることを決める。
私は逸れてしまった思考を元に戻すため、頭を軽く振り、ハーバー・ボッシュ法についての思索を続ける。
「ハーバー・ボッシュ法では、何らかの『触媒』が必要だったはずです。しかし、それが何だったのか、ちょっと記憶していないのですよね……」
覚えていないものは仕方がないので、長期研究課題として、基礎研究を誰かに任せる方向で決定する。
「バケガク反応以外でスイソを利用した例って、ヒコウセン以外で何かありましたかね?」
ちなみに、バケガクというのは、化学のことだ。化学部をダイガクに立ち上げる時、私が命名していた。
物理については物理魔法があることから分かる通り、平民たちの間でも該当する単語が知られていた。
しかし、化学にあたる単語は知られていなかったため、バケガクと命名したのである。
カガクにしなかったのは、私が科学と混同しないためだ。
なお、バケガクの研究者はバケガク学者になる。こう書くと、なんだかガクが多いように感じるかもしれないが、これは、翻訳の都合でそうなっているだけなので、大陸共通語で書けば問題ない。
閑話休題。
私は水素の利用方法について、もう少し考えを進めてみた。
「確か、『メタンガス』や『プロパンガス』の利用が広がる前は、『水素ガス』が都市『ガス』として利用されていた時期があったはずです」
これなら燃やすだけで事足りるので、比較的、簡単に利用できそうだ。
ただ、水素ガスは燃焼効率が高すぎるため、不用意に火を点けると爆発する危険性がある。
そのため、前世では、不燃性のガスである一酸化炭素を混ぜていたはずだ。
しかし、そのために一酸化炭素中毒の事故が絶えず、だんだんとメタンガスなどに置き換わっていったという歴史的背景がある。
「とりあえず、『窒素ガス』を混ぜて実験してみますか」
水素は軽い気体であるため、混ぜるのであれば空気よりも軽い気体でないと分離してしまって意味がない。
そこで、空気があれば手に入る不燃性の窒素ガスを利用することにして、とりあえずの研究を開始する。
ただ、空気から効率よく窒素ガスを分離する方法を、私は良く知らない。
せいぜい、空気を液体になるまで冷やしたり、圧力を加えたりしてから分留する方法ぐらいしか分からない。
この方法を使うと、かなり高コストになってしまうのだが、とりあえずはこれでも実験はできるだろう。
また、水素ガスは無色透明で無臭であるため、ガス漏れが起こった時にすぐに気が付くようにするため、何らかの匂いを付与する研究も必要だろう。
窒素ガスの効果的な入手方法も含めて、研究課題とすることにした。
このようにして、水素の安全な燃焼方式の研究が始まった。
そして、同時に、水素ガスを利用した本物のガスコンロの開発も進めた。ただ、魔道具のコンロを私が既にがすこんろと命名していたため、そのままでは混乱すると指摘されていた。
しばらく名前で悩んだのだが、結局、単純に『スイソこんろ』と命名した。
研究開始から五年が経過する頃になると、都市ガスの配管工事と、スイソこんろの一般販売も始まっていた。
がすこんろよりもはるかに安価な調理器具として、スイソこんろは人気を博していくことになる。
それによって、住民からの陳情が多く寄せられるようになり、ガス管の配管工事を前倒しで行わなくてはならなくなったほどである。
そのため、がすこんろの販売不振を懸念するものもいたのだが、これについては、杞憂に終わっていた。
魔石をたまに交換するだけで良いがすこんろは、高級モデルとして人気を保っていたためである。
また、ガイン自由都市以外では、スイソこんろが利用できなかったことも、理由としては大きかったようだ。