先祖返りの町作り ~無限の寿命と新文明~
第69話 印刷技術の開発目標
エストの結婚式から、一か月ほどが経過した頃。
私はヒデオ工房の工房長の部屋で、一人、額に汗を流しながら作業を続けている。
エストの奥方になったローズさんは、現在増築工事中の領主館に引っ越していて、夫婦仲良く新婚生活を送っている。
あれから国王様の許可も下りて、正式にガイン村はガインの町になっていた。同時にエルクも陞爵し、中級貴族になっている。
町の規模からすると領主館はかなり小さくなっていたし、家族が増えた事も加味して、館を増築している。
町の拡大と共に領主のエルクの仕事も増加していったため、私とエストが領主の業務を一部代行している。
また、今後を見据え、町の運営を担う官僚を新しく雇う事も、既にエルクは決定している。
通常であれば、官僚は名誉貴族を雇うものなのだが、我が家はそろって貴族嫌いであるため、平民から募集して教育する事が決まっている。
ここでも、爵位を継げない貴族の次男以下の子弟たちが就職先として自分を売り込みに来る事もあったのだが、エルクは全ての貴族をすげなく追い返している。
そして、私は、領主代行の業務の合間にガインの町をさらに発展させるための方策を考えている。
一人で考え事をする時に最近良く使うようになっていたヒデオ工房の工房長の部屋で、さらなる発展のための思索を続ける。
「そろそろ頃合いだと思います。もう少し高度な数学を教える事にしましょう」
私は近頃すっかりと習慣になってしまっている、独り言を呟きながら思考をまとめていく。
「やはり、きちんとした教科書をもっと楽に量産したいですね。そのためには、『印刷』技術しかありません」
この国には印刷技術がないため、本は全て手書きの写本になる。そのため、教科書を用意しようとすると、かなりの時間と手間がかかってしまう。
「ここは、一気に『活版印刷』を開発してしまいましょう」
印刷技術には、木の板を削りだして木版画のようにして印刷する木版印刷や、厚紙などに穴を開けて上からインクを塗って印刷する孔版印刷などがあるが、ルネッサンスの大発明として知られる活版印刷を採用する事にする。
「『活版印刷』であれば、『印刷機』をどうするかですね。さすがに、グーテンベルクが作ったとされる圧搾機を改造した『印刷機』は構造を知りません。短時間での開発は無理ですね」
活版印刷の簡単な手順は、以下のようなものである。
まず、金属でできた金属活字と呼ばれる一文字のハンコのようなものを多数用意し、それらを組み合わせて一ページを印刷するための組版と呼ばれるものを作る。
その組版を木の枠にはめ込み、固定した後に、粘度の高いインクを塗りつけ、上から紙を乗せ、そのさらに上から台を押さえつけて圧力を加え、印刷するというものだ。
「ここは、妥協して、木版画の要領で『印刷』しますか」
ちゃんとした印刷機があれば、バンバンと機械を叩きつければ次々に印刷ができるのだが、構造が分からないので今後の課題とする。
普通にローラーを使ってインクを塗り、馬連を使って木版画と同様の手順で印刷する事を決定する。
私の金属加工の技術を使えば、金属活字の形に加工はできるだろう。
ただ、活版印刷には、この金属活字が大量に必要になってくるため、私の作ったものを原盤として鍛冶屋に発注し、鋳造で量産する事を決定する。
グーテンベルクの印刷機のように、上から叩きつける印刷機を使うのであれば、かなり正確に金属活字の高さを揃えないと印刷時に紙が破損する恐れがある。
しかし、木版画のようにするのであれば、そこまでの精度は必要ないだろう。
「図形の証明のような『幾何学』も教える事を考えると、『活版印刷』だけではダメですね。ここは、『ガリ版印刷』も開発してしまいましょう」
ガリ版印刷の簡単な手順は、以下のようなものだ。
まず、後ろが透けるほどの薄い紙を用意し、それを蝋で補強したロウ原紙と呼ばれるものを作る。
次に、先端を丸めた鉄製の針を取り付けた鉄筆と呼ばれる道具と、網の目状の細かい凹凸を付けた謄写版という道具を用意する。
この謄写版の通称がガリ版になる。
そして、印刷したいものの上にロウ原紙を透かし、文字や図形などを書き写す。
そして、このロウ原紙をガリ版に乗せ、黒く印刷したい部分を鉄筆でなぞってガリ版に押し付け、小さな穴を連続して開ける。
この作業は、原紙を切る、あるいは、ガリを切るとかガリ切りをすると呼ばれる。この時の作業でガリガリという音がするため、これがガリ版印刷の名前の由来になっているのではないだろうか。
五十代から上の年齢であれば、学校でもやっていた作業になるため、覚えている人もおられるのかもしれない。
最後に、この多数の穴を開けたロウ原紙の上からインクを塗って印刷する。
少し高度な、一種の孔版印刷である。
漢字文化の日本では全種類の金属活字を用意する事が難しかったため、盛んに利用されていた時期のある印刷技術である。
「『ロウ原紙』のための薄い紙は、今のワシ工房でもおそらく作れるでしょう。ただ、『ロウ原紙』を作るための道具の開発が必要ですね」
ロウ原紙を作るためには、薄い紙に蝋を均一に薄く塗る必要がある。
凹凸があったり蝋が分厚かったりすると、ガリ切りが正確にできなかったり細かく開けた穴が印刷時に簡単に塞がってしまったりするためである。
クッキングシートとアイロンがあればそれらで手作りできると、とあるラノベで読んだような気もするのだが、シリコン製のクッキングシートを開発するよりはマシと、専用の道具を開発する事にする。
二つのローラーに溶かした蝋を塗り、その間に紙を挟んで蝋を薄く塗る道具の開発を決定する。
「『ロウ原紙』を作るための蝋も開発しないといけませんね」
ロウ原紙はとても細かい穴を多数開ける必要があるため、簡単に罅割れが入らないような、粘りのある蝋で原紙を補強しなければならない。
「ただ、幸いにも、『冷蔵庫』開発のために様々な樹脂は既に入手していますから、少し頑張れば開発できるでしょう」
ロウ原紙を作るための蝋は、蝋と松脂などを混ぜて作る。
ゴムの代用品開発のために樹脂は豊富な種類がこの工房にあるので、そのまま開発してしまう事にする。
「インクも開発してしまいましょう」
この国にもインクはあるが、それなりに高い。
成分を分析したわけではないが、やや青みがかった色が黒く変色していく過程などを観察した結果、おそらくは古典インクとも呼ばれる没食子インクが使用されていると思われる。
没食子インクは撥水性に優れるため、水分をはじきやすい羊皮紙にも書きやすいという利点がある。
その反面、鉄塩やタンニン酸などの原料が必要になってくるため、比較的高価になりやすいという欠点もある。
そこで、印刷用の粘度の高いインクを用意するためにも、煤と乾性油をこねて作るインクの開発も併せて行う事にする。
ちなみに、乾性油とは時間が経つと乾燥する油の事であり、インク作りに向いている。これと対をなす油を非乾性油といい、油紙などに使用される。
「ただ、インクのための煤を量産するための炭焼き窯も、同時に開発してしまわないといけませんね……」
日本には、伝統的な固形墨を作るための煤を量産する専用の炭焼き窯がある。
煤を作るためには油の乗った松などを不完全燃焼させる必要があるため、障子で囲った部屋が必要なはずという、ざっくりとした構造しか覚えておらず、難航が予想される。
「ちょっと、開発目標を欲張りすぎですね。まずは、インクと『活版印刷』技術の開発から始めましょう」
そして、現在、竈を利用している民家に頼んで集めてもらった煤と植物油を混ぜながら、印刷用のインクの試作品を作っている。
「かなりの力仕事になると本に書いてありましたが、私の体力では、ちょっと研究が大変そうです」
私は額の汗をぬぐい、だるくなってしまった腕を振る。
私の今世の体は、それなりに体力も筋力もあると自負している。しかし、エルクやエストのような、前衛を張れるほどのものでもない。
「これは、煤と油を混ぜるための魔道具の開発から進める事にしましょう」
モーターの魔道具があるので、混ぜる魔道具は作れるだろう。
この時、ゴムベラのようなものも開発しないといけないが、幸い、ゴムの代用品は冷蔵庫開発で研究している。
完全なゴムベラでなくても、鉄製や木製のヘラの周囲だけゴムの代用品で覆えばいいだろう。
「なんだか、開発しないといけないものが、どんどんと増えていってしまっています。少しずつ、一歩ずつ進めていきましょう」
私は決意を固め、地道な研究を続けていく。